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何もない。しかしつらい。

みんなが気付いていたとして

学生時代から感じている不安のひとつに、「遅かれ早かれ、自分は皆に駄目な奴だと思われてしまう」というものがある。

もう少し具体的に言うと、学校でも会社でもどこでも、ある程度の期間同じ環境で過ごせば、自分の欠点や、何年も成長しない部分が周りの人に気付かれてしまうだろうということだ。

これも間違いなく、私の意識の中心に常にある「自分は努力ができない」という意識に起因していると思う。努力し続け、成長し続けることの出来る人だけが、人間としての価値を許されるような気がしてしまうのだ。自分自身は、他人に対してそういったことは思わないのであるが。


今の会社に勤めて3年が経つが、これくらいのタイミングが一番怖いと感じる。3年も経ってこの程度しか仕事ができないのかとか、折角コストをかけて未来ある新卒社員を求めていたのに外れくじを引いてしまったとか、周りの人にそんなことを思われているのではないかと疑心暗鬼になりがちだ。他人を必要以上に恐れるのは失礼なことだと分かっていても。

また自分は昔から「他人の欠点」というものに注意が向かない性分のようで、自分の欠点もまた他人にはどのように映るのものなのかうまく想像できない。このことがまた、人に囲まれて日々を過ごすことへの不安を増大しているように思える。自分の存在が他人の中に生み出すのは、怒りか、苛立ちか、一体何なのか。


ただし冒頭の「周囲の人に駄目な奴だと思われてしまう」というのは自分の憶測の部分がほとんどで、(あるいは自己嫌悪の投影かもしれず)、実際自分が周囲の人達にどう評価されているのかは意を決して確認してみない限り分からない。

それでも、3年近く勤めているの職場や、あるいはもっと長く所属している別のコミュニティで、誰でも一つは私の短所に気付いてはいるはずだ。
そのうえで、「この人はそれを気にしない人なのだろうか?」「欠点が見えたとしても特に何とも思わないのだろうか?」といったことを考える。

ただ、それらならまだ良いとして「最悪の場合、もう我慢の限界に達してしまってはいないだろうか?」という不安を駆り立てられることもある。

これではまるで思春期に解決すべきだった自意識過剰を未だに引きずっているようだな、と情けなくもなるが、解決の手立ては結局実際に人と関わる経験を積み、他人の立場を理解する力を養うことや、非合理な憶測から生まれる不安を取り除いていくことなのではないかと素人考えながら思っている。

人が怖いから対人関係を避けてしまうのか、対人関係を避けるから人が怖くなってしまうのか、卵と鶏のような話になってきたので、今回はこのあたりで。