わたしはそう思わないけれど、あなたはそう思うんだね
前に「そのままの自分、という足枷」という記事を投稿したが、今回の内容もそれと一部関係している。
上の記事では、「“ありのままのあなたで良い”、という言葉は、“ありのまま”であることが苦痛で、変化したいと感じている人にとっては救いにならないかもしれない」ということや、「私はその一人であり、今の自分を他人に認めてもらうことよりも、変化してゆくことを楽しみにしてもらえることが救いになる」と感じていることについて書いていた。
それと似たような話で、私は「そんなことない」とか「そうは見えないけれど」という言葉も、必ずしも救いになるとは限らないのではないかという疑問を抱いている。
具体的には「私はダメだ」とか「私は頑張っていない」というこちらの言葉に対して、誰かから「そんなことない」「そうは見えないけれど」という言葉がかけられるとき、勿論気持ちは有り難いのだが、「自分の感情をそのまま受け入れてもらえていない」ともどかしく感じてしまうのだ。
それなら、こちらの「自分はダメだ」という認識を産み出している前提を相手と共有し合えればよいと、私はひたすらに根拠を述べる。これができないからダメなのだとか、ここがこうだから頑張っていないだとか。
そこには「力ずくで相手を論破したい」みたいな、やけを起こしたような気持ちが少なからずあるのだが、最終的に辿り着きたいのは、相手に「私はそうは思わないかもしれないけれど、あなたはそう思うんだね」と言わせることなのだ。そうやって、お互いに見えているものが食い違っていることを確かめられたら私は納得するし、きっとそれが私の求めている救いなのだろうと思う。
「ありのままのあなたでいい」も、「そんなことないよ」も「そうは見えないけれど」も、私には救いにはならないと感じる。でも、それらの言葉を発した人の立場から見える事実がそれであるのならば、私はその見方を否定せず尊重するのが筋だと思う。私自身が、私に見えているものを否定されたくないように。
でもそこまで冷静になることが今の自分にはできないようで、まるで相手を論破しにかかるような態度をとってしまうのかもしれない。また、他人にはその人自身の考える救いや優しさ、人への寄り添い方があるにも関わらず、こちらが「私の求めている救い」という自分本意の希望を抱いてしまうことには後ろめたさも感じてしまう。
こんなことを書いていたら、他人の与えてくれる優しさを否定しているようで申し訳なくなってきた。だけれど、できることなら、そうやって私の視点でどんなものが見えているかを否定せず聞いてもらいたいというのが本当のところだ。
多分、お互いが「私はそうは思わないかもしれないけれど、あなたはそう思うんだね」の構えであるのが理想なんじゃないかなと思う。