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何もない。しかしつらい。

誰かの下位互換でしかない

より優れた能力を持った人たちと、彼らと比べ劣っていることになってしまう人たちの関係を、“上位互換・下位互換”と喩え始めた人が誰かは分からない。けれど毎度、よくもこんなに刺さる言葉で表現したものだと悲しいながら感嘆してしまう。これらの表現は、自分の存在価値についてネガティブな思考を繰り広げる時、あまりにも使い勝手が良すぎる。

たとえば私は、「自分の上位互換になる人なんて正直いくらでもいる、じゃあ何故わざわざ自分なんかが生きている必要があるのか?」とか、
「誰かの下位互換でしかない自分は、そのうち優れた誰かが現れたら居場所を失ってしまうのではないか?」とか、そんなことを常々考えている。
そのことが示すように、「自分の上位互換はいくらでもいる」「自分は誰かの下位互換」という簡潔なフレーズは、もう自分自身を認められないときのやぶれかぶれな思考にドンピシャでハマってしまう。

ただ、そうした意識は学生時代にはそれほど感じることがなかったように思う。どうも労働が怪しい。
実際社会人になってから、「自分は仕事で活かせるスキルや履歴書に書ける現職の実績が何もなく、仮に今の居場所を失ったら他に働き口を見つけられないだろう」という焦りだとか、「まだひよっこの新卒社員でも匿ってくれる今の環境でなければ、きっととっくに首が飛んでいる」という緊張感を感じるようになりがちになった。

理由としてはおそらく、それまでは学生であるということによって、とりあえずは自分の身分や毎日を暮らす目的が保証されていたからだろう。(とはいえ学生生活中にもっと色んな経験を積んでいれば、とは思う。そうすれば今の自分は今もっと色々な可能性を持てていて、将来の選択肢がなくなるかもだとか、大したことができないのなら要なしになってしまうかもだとか、そういう不安もここまで増大することはなかったかもしれない)


話がかなり反れたような気がするが、“上位互換・下位互換”の話に少し戻りたい。
もちろん、私はこの息苦しい思考から抜け出したいとと思っている。人により出来ることと出来ないことに違いがあるのは当然のことであるということを理解できるようになって(どうしても自分の以外の人間のすごい部分しか目に入らないのだ)、“下位互換”であることは、不要な存在であることを意味しないと信じたい。

そのためには、取っ替えの利かない価値のある人間に実際になってしまうか、たとえ自分の上位互換となる人がいても、それで自分の存在価値が失われるわけではないと思えるように考え方を変えることが必要だな、と思う。いずれにしても難しいことだとは思うが、昔からの悩みに比べればまだ日は浅いので、早めに手を打ちたいと思うほかない。

さて、この“上位互換・下位互換”については就職を皮切りに浮上してきた悩みのひとつなのでるが、仕事に限らない、生活や趣味のモチベーション低下も引き起こしている側面があるので、日を改めて詳しく書ければと思っている。長々と書いてきた割に核心に触れられなかった心残りがある。
他にも書きたいことが多すぎるので、それがいつになるかは分からないが、自分でも近年かなり怖さを感じていることなので必ず書き留めておきたい。