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何もない。しかしつらい。

努力できない、という絶望

前回の記事で「自分に希望を持てない」というような表現をちらっと使った。これは自分にとって絶対に素通りのできない、何よりも重要な不安要素として引っ掛かっているものなので、もう少し詳しく掘り下げておきたい。

実は一年ほど前から、休日に何もする気が起きず一日中寝ている日が半分くらいある(もちろん心療内科の治療を続けてはいるが、状況は一進一退である)。
それは平日の疲労によるところも大きいと思うが、家にいることで「頑張ることのできない自分」が浮き彫りになるように感じるというのも大きいだろう。家にいるのも気が沈むが、外に出るのも気が進まないという板挟み状態である。


一体どうして、月曜から金曜は早く週末にならないかと心待にしていたはずなのに、いざ土曜日になると何をしたらいいか分からなくなってしまうのだろう。まるで自分が何に喜び、何を楽しいと感じるかをすべて忘れてしまったかのような感覚に毎度怖くなる。動かない心と、重い身体と、思うように回らない頭といった具合だ。
皮肉な話だが、平日に仕事があるのが救いにすら感じられることさえある。

片付けられない部屋の中、読めずに溜まっていく本や、練習を投げ出してしまったギターや、ジムに通い始めて半年で寝巻きになってしまったトレーニングウェアや、絶えず情報を受信するスマートフォンや、公共料金の督促状や、自分も創作ができるかもしれないと買い込んだPCソフトや画材や、その他諸々が、「やっぱり自分は頑張ることができないんだ」「自分も頑張れるという証拠を見せつけなくては」という気持ちを駆り立てる。


さて、ここまで何度か「頑張る」「努力」という言葉を使ってきたが、話を進めるにあたり、それらに対する私の認識と、「頑張れない、努力できない人間だ」と自認するようになった経緯を(かなりぼかした形にはなるが)示さなければいけない。

私は、「頑張る」「努力する」ということを、「特定の目標に向けて行動を起こすことで、なおかつ“つらいことに耐えるのが前提”」という捉え方をしている。前半部分はさておき、この後半部分に異論はあると思う(そう思うし、私自身も異論を唱えたいと思う)。
この認識が適切がどうかはさておき、「つらいことに耐える」ということに極端に自信がない自分には、当然お先真っ暗なような気がしてならない。

そして私が「頑張れない、努力できない人間だ」と自認するようになったのは、とある時点で他人に指摘されたことが決定的なものだった。
これについては、敢えて詳細を語ることはしないでおく。もしかしたら今よりさらに救いのない人間になっていたかもしれない私を思春期の時点で諭してくれた彼女には、実はとても感謝をしているのだ。

そうは言っても、「努力ができない」ということは、永遠に絶望を約束されたようなものだと感じる。今現在の自分の可能性以上のものはもう手に入らず、まるで逃げ場のない局面へ追い込まれていくことを余儀なくされたような心地だ。

これまで何の苦労もせず生きてきた自分は、子供の頃のままのヤワな心で、それ以上の強さを手にいれることなく、いつか向けられることになる止めの一撃できっと再起不可能になるのだ。
その時が来てしまうのはいつになるだろうか。これまで直面したことのない近親者の危機や、経済的困窮や、仕事の責任など、これからのライフステージで迎え撃つことになるであろう重圧に自分は耐えることができるだろうか。


収拾がつかなくなってきたので、一旦この記事は終わりにしようと思う。
自分の中でも、人生の半分以上答えが出ていない問いなので、紐解くにはやはり時間がかかるかもしれない。