a.k.a.e.t.c.

何もない。しかしつらい。

そのままの自分、という足枷

「そのままの貴方でいい」という言葉が本当にその人を救うのか、近頃疑問に思うことがある。

過去の自分はそこまでの考えに至らなかったので、そんな口当たりのよい言葉を誰かにかけたこともあったかもしれない。しかし今は、それがたとえば劣等感であるとか、自己嫌悪であるとか、自分への絶望であるとか、そうした諸々の自己否定(要するにこのブログで触れているようなこと)に対する特効薬であるとは信じられなくなってきてしまった。もちろんそう言いたくなるのは分かるので、気持ちは有り難く受け取っているのだが…。

ただ、「そのままの自分」であることそのものが苦痛である以上、「そのままの貴方でいい」がたとえ掛け値なしの優しさから発せられたものであったとしても、こちらと相手の双方の認識のズレだとか、大袈裟ではあるが「やはり自分の人生は“そのまま”で詰んでしまうのがオチなのだろうな」ということを感じてしまう。

もう少し具体的に言うならば、「今の自分の人格や能力をありのまま認めてほしい」ではなく、「今の自分は頑張って成長して、もし気に入ったらでいいので、他の人にもその過程や結果を認めてほしい」というのが本心である。

だから、「そのままの貴方でいい」という言葉は「進歩がなくても仕方ない」と言われているようにも感じて、どうにももどかしくなる。何かしらか期待はされていたいのだ。時には、こちらの言わんとしていることを理解してもらわなくてはという焦りから、つい強めの口調で言い返してしまうこともある。


冒頭の話に戻るが、私が「そのままの貴方でいい」という言葉への疑問を抱くようになったのは、「今のままの自分でいたくない」という思いが年々強まってきたのがきっかけだと思う。

継続的な努力ができないのも、何事もやる気が出ずほとんど起き上がれない日が増えてしまったのも、何年も同じ考えが頭の中で常に堂々巡りしているのも、かつてはそうではなかったのだから、これが本来の姿だと受け入れるのは絶対に御免だという思いが日に日に強くなっているのだ。

(適応障害で休職期間を頂いた際に、初めて診断書を書いてもらったのだが、「本来の力を発揮できない状態にあります」と書いてあったのを見て非常に安堵したのが印象に残っている。)

昔から明るくなったり暗くなったりを繰り返して、本来の自分というものが生まれてこの方ずっとわからない。だが例を挙げれば、小学校時代はいつもリーダー役を進んで引き受けて、新しい遊びに他人を巻き込むのが大好きな子供だった。そんな過去もあったということを明かせば、多少の説得力も出るだろうか。

最後に、自分のわがままな希望を聞いてもらいたい。
私が周囲の人に願うこととしては、これから先起こっていくであろう(ちゃんと起こるよね?)自分の変化を、本人共々楽しみにしていてもらいたいということだ。

ただ、目に見える変化がすぐに出てくる前に愛想を尽かされてしまうかもしれないし、こちらが急にハンドルきって暴走し出すこともなきにしもあらずなので、安心して楽しみにしていてもらうことは難しいことであると思う。

おそらく「今のそのままの貴方」と「これから変わっていく未来の貴方」の双方を受け入れることは、ひいては人やモノを愛することそのものの問題だと思う。ここに触れると、多分そこそこの文章量になってしまうので、今日はこの辺で。

用途未定のエネルギー

大学時代に衝撃を受けた…はずなのだが、その割に最近忘れそうになっていたエピソードがあるので、今のうちに書き残しておこうと思う。

大学4回生の頃、所属していた学部にカウンセリング室が開設された。ちょうど就活の真っ只中で時間にも気持ちにも余裕がなかった頃だったため、通いやすい場所で気軽に通えるのが何より良いと思った。
(ちなみに大学本部のカウンセリング室というのはまた別にあり、入学したての頃に一度足を運んだことがあるのだが、まあなんというか少し巡り合わせが悪く、それきりになっしまった経緯がある)

初めこそ先生との相性はどうだろうなどという懸念はあったが、それは杞憂だった。それどころか、これまで自分の思い至らなかったことに気付くきっかけを与えてもらうことができ、結局卒業するまでお世話になってしまった。(私はずるい学生だったので、度々心理学の講義について質問したりもした)


前置きはこれくらいにして、先生に色々と話をきいてもらう中でひとつ大きな衝撃を受けたことがある。それは「エネルギーを内側へ向けすぎているんじゃないか」と言われたことだった。
衝撃というとニュアンスがいまひとつ伝わらないかもれないが、これまで気付きもしなかった視点を与えられたことで救いを感じたというか、とにかく袋小路に風穴が開いたような、そんなものだった。


今考えてみれば、その言葉はとても抽象的で、具体的な策が示されたわけでもないし(解決策は自分が見つけるものだと思うので、それ自体に不満はない)、そもそもどういった話の流れだったのかも忘れてしまった。エネルギーというのも、うまく説明することができないからエネルギーという他ないような気がする。

ただ、「エネルギーは外部に向けても良い」という発想が自分には欠けていたことをその時初めて気付かされ、たえず自分自身と向き合い続けないといけない行き詰った状況から救われたように思えたのだった。

今まで気付くことがなかったが、私の中にあるエネルギーがたとえば雲のような形をとるものだったとして、それをひたすら紫煙のようにぐるぐると内側へ焚きつめることもできるが、風通しを良くして外へ放つこともできるはずなのだ。つまり自分のエネルギーをどこへ向けるかは、自分に決める権利がある。そんなイメージが生まれた。


カウンセリングについては、それまでに別の場所で数年間通い続けたという経緯もあり、他にも書かないといけないことがまだまだあるが、とりあえず今回は大学時代の話ということで一旦締める。

みんなが気付いていたとして

学生時代から感じている不安のひとつに、「遅かれ早かれ、自分は皆に駄目な奴だと思われてしまう」というものがある。

もう少し具体的に言うと、学校でも会社でもどこでも、ある程度の期間同じ環境で過ごせば、自分の欠点や、何年も成長しない部分が周りの人に気付かれてしまうだろうということだ。

これも間違いなく、私の意識の中心に常にある「自分は努力ができない」という意識に起因していると思う。努力し続け、成長し続けることの出来る人だけが、人間としての価値を許されるような気がしてしまうのだ。自分自身は、他人に対してそういったことは思わないのであるが。


今の会社に勤めて3年が経つが、これくらいのタイミングが一番怖いと感じる。3年も経ってこの程度しか仕事ができないのかとか、折角コストをかけて未来ある新卒社員を求めていたのに外れくじを引いてしまったとか、周りの人にそんなことを思われているのではないかと疑心暗鬼になりがちだ。他人を必要以上に恐れるのは失礼なことだと分かっていても。

また自分は昔から「他人の欠点」というものに注意が向かない性分のようで、自分の欠点もまた他人にはどのように映るのものなのかうまく想像できない。このことがまた、人に囲まれて日々を過ごすことへの不安を増大しているように思える。自分の存在が他人の中に生み出すのは、怒りか、苛立ちか、一体何なのか。


ただし冒頭の「周囲の人に駄目な奴だと思われてしまう」というのは自分の憶測の部分がほとんどで、(あるいは自己嫌悪の投影かもしれず)、実際自分が周囲の人達にどう評価されているのかは意を決して確認してみない限り分からない。

それでも、3年近く勤めているの職場や、あるいはもっと長く所属している別のコミュニティで、誰でも一つは私の短所に気付いてはいるはずだ。
そのうえで、「この人はそれを気にしない人なのだろうか?」「欠点が見えたとしても特に何とも思わないのだろうか?」といったことを考える。

ただ、それらならまだ良いとして「最悪の場合、もう我慢の限界に達してしまってはいないだろうか?」という不安を駆り立てられることもある。

これではまるで思春期に解決すべきだった自意識過剰を未だに引きずっているようだな、と情けなくもなるが、解決の手立ては結局実際に人と関わる経験を積み、他人の立場を理解する力を養うことや、非合理な憶測から生まれる不安を取り除いていくことなのではないかと素人考えながら思っている。

人が怖いから対人関係を避けてしまうのか、対人関係を避けるから人が怖くなってしまうのか、卵と鶏のような話になってきたので、今回はこのあたりで。